『動物からの倫理学入門』へのコメントと質問

神崎宣次

1. p.323の「まず前者の問題だが、」で始まる段落は日本語の文章として何を言いたいのかよくわからない

「一番無理なく均衡を作れる方向性」を探すと述べたあとで「二層理論は功利主義を出発点として往復均衡を実現する方法として比較的すぐれている」と述べられている。ここで一番無理のない方向性とされる内容に功利主義を出発点とすること自体は含まれているのか、それとも均衡へのプロセスの出発点として何でもいいけどとりあえず功利主義を自分は選んでおくと言っているだけなのか。

また、いずれであったとしても、本書のそれまでの理論的検討の上に据えられた主張とはいいがたいように思われる。続く箇所で述べられている後者の問題については著者の個人的見解という断りがあるが、こちらもそうではないのか。

2. 本書に含まれる二つの異なった問題について

1) 倫理学者あるいは動物解放論者の集団内部でのさまざまな哲学上の立場についての議論の検討

2) これらの集団が一般の人びと(あるいは本書を読む学生)というより広い集団に対して、動物解放に向けて何を言うことができるかという説得の問題

この二つの問題の間の違いは、本書の最後の方に出てくる議論に影響を及ぼすのではないか。320-321ページで、いくつかのかなり広く共有されている規範的判断や背景理論を組合せることで「動物にも「人権」があり、危害を加えてはならない」という結論が導かれるとされている。だが推論の前提のうち、「倫理判断は普遍化可能である」は著者の想定とは違い、脆弱な前提ではないか。なぜなら、これは倫理学者、それもたかだか功利主義者やカント主義的倫理学者などの間で共有されているにすぎない前提かもしれない(著者はこれを「少なくとも現代市民社会に生きるわれわれにとっては抜きがたい確信となっている」と言うが、それはどう考えても言いすぎ)。したがって、少なくとも一般の人びとを説得するという文脈においては、この結論は著者が考えているほど安定したものではないように思われる。

3. 「関心をもち、無理をせずにできる範囲のことをやり、考え続ける」という戦略が生ぬるいと批判されるような後の時代(p.325)なんてくるのか? 動物解放論の30年についての著者の評価は?

ラディカルな態度が一般の人びとに(少なくとも今すぐには)受け入れられがたいという認識と、それに対応するための戦略という問題。これは環境倫理の領域でも議論されてきたこと。

たとえばジョン・ミューアはある時点から環境保護を公に訴えかける場面では自分自身が持つ非人間中心主義的な価値観(これは彼の時代にはラディカルな主張だった)を表に出さずに、人間中心主義的な言葉づかいを意図的に用いたとされる。歴史家ロデリック・ナッシュは、ミューア以降も多くの環境倫理思想家がこのような戦略を採用してきたと述べている。

問題は、ミューアの時代から世紀が変っても環境倫理学者はこれを続けているということ。ブライアン・ノートンは環境主義者と一般の人びととの間にある分裂を憂い、アンドリュー・ライトは公衆の説得のために戦略的人間中心主義という立場を提案している。だが、いつまでこのような戦略をとりつづけなければならないのか。ある意味で環境倫理思想家の戦略は100年間近く失敗しつづけていると言ってもよいのではないだろうか。そして成功しない戦略に、われわれは意義を認めるだろうか。

著者は動物解放論者の戦略について語っているが、では著者は動物解放論の30年をどう評価しているのか。また、現在それが必ずしも一般の人びとに広く受けいれられていないという現状認識に基づいて(妥協的な)戦略を現在のところは採用しておくことを結果的に正当化するような後の時代がくると考えているのか。それとも、動物解放論が一般に普及するという見通しをはっきりとはもてないからこそ、ここで述べられている戦略を生ぬるいと後の世代が言うだろうと考えているのか。

さらに、来るべき後の時代として著者が本書全体で想定しているのは、実験動物や畜産動物などがより配慮を持って扱われるようになった状態(これは現在の世界的な潮流からほぼ確実にそうなっていくと考えられる)を指しているのか、それともわれわれが肉食を止めるような状態(こちらは必ずそうなるとは言いにくい)のどちらなのか。この点に関していえば、シンガーのある種割り切った主張には知的な誠実さがあるように思われる。